吉川英治『三国志(新聞連載版)』(190) 痴蝶鏡(ちてふきやう)(一)

吉川英治『三国志』の新聞連載版を1日2回発信します。第190回。
三国志研究会(全国版) 2026.07.16
誰でも

 春は、丈夫の胸にも、悩ましい血を沸かせる。

 王允のことばを信じて、呂布はその夜、素直に邸(やしき)に帰つたものゝ何となく寝ぐるしくて、一晩中、熟睡できなかつた。

「——どうしてゐるだらう、貂蟬は今頃」

 そんな事ばかり考へた。

 董太師の館へ伴はれて行つたといふ貂蟬が、どんな一夜を明かしてゐるかと、妄想を逞(たくま)しうして、果(はて)は、牀(セウ)のうへに凝(じつ)としてゐられなくなつた。

 呂布は、帳(とばり)を排して、窓外へ眼をやつた。そして彼女のゐる相府の空をぼんやり眺めてゐた。

 鴻(コウ)が鳴き渡つてゆく。

 朧月(おぼろづき)が更(ふ)けてゐる。——夜はまだ明けず、雲も地上も、どことなく薄明るかつた。庭前を見れば、海棠(カイダウ)は夜露をふくみ、茶縻(やまぶき)は夜靄にうな垂れてゐる。

「ああ」

 彼は、独り呻(うめ)きながら、又、牀へ横たはつた。

「こんなに心のみだれるほど思ひ悩むのは、俺として生れてはじめてだ。——貂蟬、貂蟬、おまへはなぜ、あんな蠱惑(コワク)な眼をして、おれの心を囚(とら)へてしまつたのだ」

 彼は夜明けを待ちかねた。

 ——が、朝となれば、彼は毅然たる武将だつた。邸にも多くの武士を飼つてゐる彼だ。朝陽を浴びて颯爽と、例の赤兎馬に乗つて、相丞府へ出仕した。

 べつに、さう急用もなかつたのであるが、彼は早速、董卓の閣へ出向いて、

「太師はお目ざめですか」

 と、護衛の番将に訊ねた。

 番将は懶(ものう)げに、そこから後堂の秘園をふり向いて

「まだ帳を下ろしていらつしやるやうですな」

 と、無感情な顔して云つた。

「ほ」

 呂布は、何かむら/\と、不安に襲はれたが、わざと長閑(のどか)な陽を仰(あふ)いで云つた。

「もう午(うま)の刻にも近いのに、まだお寝(やす)みなのか」

「後堂の廊も、あの通り扉(と)ざしたまゝですから」

 静かに、春園の禽は、昼を啼きぬいてゐた。

 ——寝殿は帳を垂れたまゝ寂として、陽の高きも知らぬものゝやうに見える。

 呂布は蔽(おほ)ひ難い顔いろの裡(うち)からやゝ乱れた言葉で又訊ねた。

「太師には、昨夜、よほどお寝みが晩(おそ)かつたとみえますな」

「ええ、王允の邸へ、饗宴に招かれて、だいぶ御きげんでお帰りでしたからね」

「非常な美姫をお伴(つ)れになつたさうですな」

「や、将軍もそれを、もう御存じですか」

「ムム、王允の家の貂蟬といへば有名な美人だから」

「それですよ、太師のお目ざめが遅いわけは。昨夜、その美人を幸(さいはひ)いして、春宵の短きを嘆じていらつしやる事でせう。……何しても、けふはよい日和ですな」

「あちらで待つてゐるから、太師がお目ざめになつたら知らしてくれ」

 呂布は、思はず、憤然と眉に色を出して、そこから立去つた。

 相府の一閣で、彼はぼんやり腕拱(ぐ)みしてゐた。気にかゝるので、時折、池の彼方の閣を見まもつてゐた。後堂の寝殿は、真午(まひる)になつて、漸(やうや)く窓をひらいた様子であつた。

「太師には、たゞ今、お眼ざめになられました」

 さつきの番将が告げに来た。

 呂布は、取次も待たずに、董卓の後堂へ入つて行つた。そして、廊に佇(たゝず)みながら奥を窺(うかゞ)ふと、臥房(グワバウ)深き所、芙蓉の帳(とばり)まだ紊(みだ)れて、ゆうべ如何(いか)なる夢をむすんだか、鏡に向つて、臙脂(エンジ)を唇に施してゐる美姫のうしろ姿がちらと見えた。

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