吉川英治『三国志(新聞連載版)』(331)空腹・満腹(一)

吉川英治『三国志』の新聞連載版を1日2回発信します。第331回。
三国志研究会(全国版) 2026.09.25
誰でも

 ——一時、この寿春(じゆしゆん)を捨て、本城を他へ遷(うつ)されては。

 と、いふ楊大将の意見は、たとえ暫定的なものにせよ、ひどく悲観的であるが、袁術皇帝をはじめ、諸大将、誰あつて、

「それは餘りにも、消極策すぎはしないか」

 と、反対する者もなかつた。

 それには理由がある。

 誰も口にはしないが、実をいへば内部的に大きな弱点がある事を、誰も知悉(チシツ)してゐるからだつた。

 と云ふのは、この年、寿春地方は、水害がつゞいて、五穀熟せず、病人病馬は続出し、冬期の兵糧もはなはだ心許(こころもと)なかつた。

 ところへ、この兵革をうけたので、それも士気の振はない一因だつた。——で、楊大将の考へとしては、皇帝の眷族(ケンゾク)と、本軍の大部分を水害地区の外にうつし、ひとつに兵糧持久の策とし、二つには目前の敵の鋭気を避け、遠征軍には苦手な冬季を越える覚悟で、時々奇襲戦術をもつて酬い、おもむろに事態の変化を待たうといふのである。

「なるほど、これが万全かもしれない」

 長い沈黙はつゞいたが、やがて各々うなづいた。

 袁術皇帝も、

「その儀、しかるべし」

 と、許容あつて、立ちどころに大々的脱出の手配にかゝつた。

 李豊、楽就、陳紀、梁剛の四大将は、あとに残つて、寿春を守ることになり、これに属する兵はおよそ十万。

 又、袁術とその眷族に従つて、城を出てゆく本軍側には、将士二十四万人が附随し、府庫(フコ)宮倉(キウソウ)の金銀珍宝はいふまでもなく、軍需の貨物や文書官冊などもみな、昼夜、車につんで陸続と搬出し、これを淮水の岸からどし/\船積みして何処ともなく運び去つた。

 袁術も、扈従(コジウ)の臣も、もちろん逸(いち)はやく、淮水の彼方へ渡つて、遠く難を避けてしまつた。

 残るはたゞ満々たる水と、空骸(クウガイ)にひとしい城があるばかり。——曹操以下、寄手の三十万が、城下へ殺到したのは、実にその直後だつたのである。

 こゝへ来て、曹操も亦(また)、大いに弱つてゐた。

 寿春へ近づくほど、水害の状況がひどい。想像以上な疲弊である。

 城内の町は分らないが、郊外百里の周囲は、まだ洪水のあとが生生(なまなま)しく、田は泥湖(どろうみ)と化し、道は泥没(デイボツ)し、百姓はみな木の皮を喰つたり、草の葉に露命をつないでゐる状態である。果然、彼の兵站(ヘイタン)部は大きな誤算にゆきあたつて、

「どうしたら三十万の兵を養うか」

 に苦労しはじめた。

 遠征の輜重(シチヤウ)は、もとよりさう多くの糧米は持つてあるけない。行く先々の敵産が計算に入れてある。

「これ程とは!」

 と、糧米総官の王垢(ワウクワウ)が、この地方一帯の水害を見た時、茫然、当惑したのも無理はなかつた。

 それも、七日や十日は、まだ何とかしのぎもつてゆく。

 半月となるとこたへて来た。

 ところが、滞陣はすでに一ケ月に近くなつた。陣中の兵糧は涸渇(コカツ)を呈した。

「一時に攻(せめ)陥(おと)せ」

 むろん曹操もあせりぬいてゐる。しかし攻城作戦のほうも水害のため、兵馬のうごきは不活潑(フクワツパツ)となるし、城兵は頑強だし、容易に捗(はかど)らないのである。

 そこで曹操は、呉の孫策へあてて、一書を認(したゝ)め、早馬で飛ばした。

  秋高の天、地は水旱(スイカン)

  精兵は痩せ、肥馬は衰ふ

  呉船来るを待つや急なり

  慈米(ジマイ)十万は百万騎に勝る

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