吉川英治『三国志(新聞連載版)』(5) 黄巾賊(五)

吉川英治『三国志』の新聞連載版を1日2回発信します。第5回。
三国志研究会(全国版) 2026.04.15
誰でも

「あゝ、酸鼻な——」

 劉備は、呟いて、

「こゝへ自分が泊り合せたのは、天が、天に代つて、この憐れな民を救へとの、思召(おぼしめし)かも知れぬ。……おのれ、鬼畜共め」

 と、剣に手をかけながら、家の扉(と)を蹴つて、躍り出さうとしたが、いや待て——と思ひ直した。

 母がある。——自分には自分を頼みに生きてゐるただ一人の母がある。

 黄巾の乱賊はこの地方にだけゐるわけではない。蝗(いなご)のやうに、天下至るところに群(グン)をなして跳梁してゐるのだ。

 一剣の勇では、百人の賊を斬ることも難(むづ)かしい。百人の賊を斬つても、天下は救はれはしないのだ。

 母を悲しませ、百人の賊の生命(いのち)を自分の一命と取換へたとて何にならう。

「さうだ。……わしは今日も黄河の畔で天に誓つたではないか」

 劉備は、眼を淹(おほ)つて、裏口から逃れた。

 彼は、闇夜を駈けつゞけ、漸(やうや)く村を離れた山道までかゝつた。

「もうよからう」

 汗を拭つて振(ふり)顧(かへ)ると、焼き払はれた水村は、曠野の果の焚火よりも小さい火にしか見えなかつた。

 空を仰いで、白虹のやうな星雲を架けた宇宙と見(み)較(くら)べると、この世の山岳の大も、黄河の長さも、支那大陸の偉(イ)なる広さも、むしろ愍(あは)れむべき小さい存在でしかない。

 まして人間の小ささ——一箇の自己の如きは——と劉備は、我といふものの無力を嘆いたが、

「否(いな)!否!人間あつての宇宙だ。人間が無い宇宙はたゞの空虚(うつろ)ではないか。人間は宇宙より偉大だ」

 と、われを忘れて、天へ向つて呶(ど)鳴(な)つた。すると後の方で、

 ——然なり。然なり。

 と、誰か云つたやうな気がしたが、振顧つて見たが、人影なども見当らなかつた。

 たゞ、樹木の蔭に、一宇の古い孔子廟があつた。

 劉備は、近づいて、廟に額(ぬかづ)きながら、

「さうだ、孔子、今から七百年前に、魯の国(山東省)に生れて、世の乱れを正し、今に至るまで、かうして人の心に生き、人の魂を救つてゐる。人間の偉大を證拠立てたお方だ。その孔子は文を以て、世に立つたが、わしは武を以て、民を救はう——。今のやうに黄魔鬼畜の跳梁にまかせてゐる暗黒な世には、文を布く前に、武を以て、地上に平和を創(た)てるしかない」

 多感な劉備青年は、あたりに人がゐないとのみ思つてゐたので、孔子廟へ向つて誓ひを立てるやうに、思はず情熱的な声を放つて云つた。

 ——と、廟の中で、

「わはゝゝゝ」

「あははは」

 大声で笑つた者がある。

 吃驚して、劉備が起ちかけると、廟の扉(と)を蹴つて、突然、豹のやうに躍り出して来た男があつて、

「こら、待て」

 劉備の襟首を抑へた。

 同時に、もう一人の大男は、廟の内から劉備の眼の前へと、孔子の木像を蹴とばして、

「ばか野郎、こんな物が貴様有難いのか。どこが偉大だ」

 と、罵つた。

 孔子の木像は、首が折れて、わかれ/\に転がつた。

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