吉川英治『三国志(新聞連載版)』(7) 流行る童歌(一)

吉川英治『三国志』の新聞連載版を1日2回発信します。第7回。
三国志研究会(全国版) 2026.04.16
誰でも

 驢は、北へ向いて歩いた。

 鞍上の馬元義は、時々、南を振り向いて、

「奴等はまだ追ひついて来ないが何(ど)うしたのだらう」

 と、呟(つぶや)いた。

 彼の半月槍を担いで、驢の後から尾(つ)いてゆく手下の甘洪は

「どこかで道を取つ違へたのかも知れませんぜ。いずれ冀州(河北省保定の南方)へ行けば落ち会ひませうが」

 と、云つた。

 いづれ賊の仲間のことを云つているのであらう——と劉備は察した。とすれば、自分が遁(のが)れて来た黄河の水村を襲つた彼(あ)の連中を待つてゐるのかも知れない、と思つた。

(何しろ、従順を装つてゐるに如(し)くはない。そのうちには、逃げる機会があるだらう)

 劉備は、賊の荷物を負つて、黙々と、驢と半月槍のあひだに挟まれながら歩いた。丘陵と河と平原ばかりの道を、四日も歩きつゞけた。

 幸ひ雨のない日が続いた。十方碧落、一朶の雲もない秋だつた。黍のひよろ長い穂に、時折、驢も人の背丈もつゝまれる。

「ああ——」

 旅に倦んで、馬元義は大きな欠伸(あくび)を見せたりした。甘も気(け)懶(だる)さうに、居眠り半分、足だけを動かしてゐた。

 そんな時。劉備はふと、

 ——今だつ。

 といふ衝動に駆られて、幾度か剣に手をやらうとしたが、もし仕損じたらと、母を想ひ、身の大望を考へて凝(じつ)と辛抱してゐた。

「おう、甘洪」

「へえ」

「飯が食へるぞ。冷たい水にありつけるぞ——見ろ、彼方(むかふ)に寺があら」

「寺が」

 黍の間から伸び上つて

「ありがてえ。大方、きつと酒もありますぜ。坊主は酒が好きですからね」

 夜は冷え渡るが、昼間は焦げつくばかりな炎熱であつた。——水と聞くと、劉備も思はず伸び上つた。

 低い丘陵が彼方に見える。

 丘陵に抱かれてゐる一(ひと)叢(むら)の木立と沼があつた。沼には紅白の蓮花(はちす)が一ぱいに咲いてゐた。

 そこの石橋を渡つて、荒れはてた寺門の前で、馬元義は驢を降りた。門の扉(と)は、一枚は壊(こは)れ、一枚は形だけ残つてゐた。それに黄色の紙が貼つてあつて、次のやうな文が書いてあつた。

  蒼天已死(さうてん すでにしす)

  黄夫当立(くわうふ まさにたつべし)

  歳在甲子(とし かふしにありて)

  天下大吉(てんかだいきち)

    ○

  大賢良師張角(たいけんりやうし ちやうかく)

「大方、御覧なさい。こゝにも吾(わが)党(タウ)の盟符が貼つてありまさ。この寺も黄巾の仲間に入つてゐる奴ですぜ」

「誰か居るか」

「ところが、いくら呼んでも誰も出て来ませんが」

「もう一度、呶(ど)鳴(な)つてみろ」

「おうい、誰かいねえのか」

 ——薄暗い堂の中を、呶鳴りながら覗いてみた。何もない堂の真ん中に、曲彔(キヨクロク)に腰かけてゐる骨と皮ばかりな老僧が居た。然(しか)し老僧は眠つてゐるのか、死んでゐるのか、木乃伊(みいら)のやうに、空虚(うつろ)な眼を梁(うつばり)へ向けたまゝ、寂然と——答へもしない。

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