吉川英治『三国志(新聞連載版)』(238)毒と毒(二)

吉川英治『三国志』の新聞連載版を1日2回発信します。第238回。
三国志研究会(全国版) 2026.08.09
誰でも

 楊彪の妻は怪しんで、良人を揶揄した。

「あなた。どうしたんですか、いつたい今日は」

「なにが?」

「だつて、常には、私に対して、こんなに機嫌をとるあなたではありませんもの」

「あはゝゝ」

「かへつて、気味が悪い」

「さうかい」

「何かわたしに、お頼み事でもあるんでしよ、きつと」

「さすがは、おれの妻だ。実はその通り、おまへの力を借りたい事があるのだが」

「どんな事ですか」

「郭汜の夫人は、おまへに負けない嫉妬(やきもち)やきだといふはなしだが」

「あら、いつ私が、嫉妬なんぞやきましたか」

「だからさ、おまへの事ぢやないよ。郭汜夫人が——と云つてゐるぢやないか」

「あんな嫉妬深い奥さんと一緒にされてはたまりませんからね」

「おまへは良妻だ。わしは常に感謝してゐる」

「噓ばかり仰つしやい」

「冗談は止めて。——時に、郭汜の夫人を訪問して、ひとつ、おまへの口先であの人の嫉妬をうんと焚きつけてくれないか」

「それが何の為(ため)になるんですか。他家の奥さんを悋気(リンキ)させる事が」

「国家の為になるのだ」

「又、御冗談を」

「ほんとにだ。——ひいては漢室の御(おん)為(ため)となり、小さくは、おまへの良人楊彪の為にもなる事なんだから」

「解りません。どうしてそんなつまらない事が、朝廷や良人の為になりますか」

「……耳をお貸し」

 楊彪は、声をひそめて、君前の密議と、意中の秘策を妻に打明けた。

 楊彪の妻は、眼をまろくして、初めのうちは、ためらつてゐたが良人の眼を仰ぐと、刮(くわつ)と、恐ろしい決意を示してゐるので、

「ええ。やつてみます」

 と、答へた。

 楊彪は、圧(お)し被(かぶ)せて、

「やつてみるなんて、生ぬるい肚(はら)ではだめだ。やり損じたら、わが一族の破滅にもなる事。毒婦になつたつもりで、巧くやり終(をは)せて来い」

 と、云ひ含めた。

 翌る日。

 彼の妻は、盛装を凝(こら)し、美々しい輿(くるま)に乗つて、大将軍郭汜夫人を訪問に出かけた。

「まあ、いつもお珍しい贈り物を戴(いたゞ)いて」

 と、郭汜夫人は、まず珍貴な音物(インモツ)の礼を云つて、

「よいお召(めし)服(もの)ですこと」

 と、客の着物や、化粧ぶりを褒めた。

「いゝえ、わたくしの主人なんかちつとも衣裳などには関(かま)つてくれませんの。それよりも、令夫人のお髪は、お手入がよいとみえて、ほんとにお綺麗ですこと。いつお目にかゝつても、心からお美しいと思ふ御方は、世辞ではございませんが、さうたんとは御座いません。……それなのに、男といふものは」

「オヤ、貴女は、わたくしの顔を見ながら何で涙ぐむのですか」

「いゝえ、べつに……」

「でも、をかしいでは御座いませんか、何か理(わけ)があるのでせう。隠さないで、はなして下さい。私に言へない事ですか」

「……つい、涙などこぼして、夫人(おく)様(さま)おゆるし下さいませ」

「どうしたんです一体」

「では、おはなし申しますが、ほんとに、誰にも秘密にして下さらないと」

「ええ、誰にも洩らしはしません」

「実はあの……夫人(おく)様(さま)のお顔を見てゐるうちに、何も御存じないのかと、お可哀さうになつて来て」

「え。わたしが、可哀さうになつてですつて。——可哀さうとは、一体、何(ど)ういふわけで。……え?え?」

 郭夫人は、もう躍起になつて、楊彪の妻に、次のことばを強請(せが)みたてた。

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[補註]新聞連載版では李傕を李確、郭汜を郭氾に作っています。この配信では誤字と思われるものも、そのまま記載することを基本方針としていますが、この誤記については数が多すぎるため、李確を李傕、郭氾を郭汜に修正しています。

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