吉川英治『三国志(新聞連載版)』(253)改元(二)

吉川英治『三国志』の新聞連載版を1日2回発信します。第253回。
三国志研究会(全国版) 2026.08.17
誰でも

 山東の地は遠いが、帝(テイ)が洛陽へ還幸された事は、逸(いち)早く聞えてゐた。

 黄河の水は一日に千里を下る。夜の明けるたび、舟行の客は新しい噂を諸地方へ撒(ま)いてゆく。

「目に見えないが大きく動いてゐる。刻々、動いて休まない天体と地上。……あゝ偉大だ、悠久な運行だ。大丈夫たる者、この間に生れて、真に、生き甲斐ある生命を摑(つか)まないで何(ど)うする!おれもあの群星の中の一星であるに」

 曹操は天を仰いでゐた。

 山東の気温はまだ晩秋だつた。城楼の上、銀河は煙り、星夜の天は美しかつた。

 彼も今は往年の白面(ハクメン)慷慨(カウガイ)の一青年ではない。

 山東一帯を鎮撫してから、一躍建徳将軍に封ぜられ、費亭侯(ヒテイコウ)の爵に叙せられ、養ふところの兵廿万、帷幕に持つ謀士勇将の数も、今や彼の大志を行ふに不足でなかつた。

「これからだ!」

 彼は、自分に云ふ。

「曹操が、曹操の生命を、真に摑むのは、これからだ。——われこの土に生れたり矣。——見よ、これからだぞ」

 彼は、今の小成と栄華と、人爵とをもつて、甘んじる男ではなかつた。

 その兵は、現状の無事を保守する番兵ではない。攻進を目ざして休(や)まない兵だ。その城は、今の幸福を偸(ぬす)む逸楽の寝床ではない。前進又前進の足場である。彼の抱負は測(はか)り知れないほど大きい。彼の夢は多分に、詩人的な幻想をふくんではゐる。けれど、詩人の意思のごとく弱くない。

「将軍。……そんな所にお在(い)でゝしたか。宴席からお姿が見えなくなつたので、皆どこへ行かれたのかと呟いてゐます」

「やあ、夏侯惇か。いつになく今夜は酔つたので、独り酒を醒(さ)ましに出てゐた」

「まさに、長夜の御宴にふさはしい晩ですな」

「まだ/\歓楽も、おれはこんな事では足らない」

「——が、みな満足してをります」

「小さい人々だ」

 そこへ、曹操の弟曹仁が、何か、緊張した眼(まな)ざしをして登つて来た。

「兄上つ」

「なんだ。あわたゞしく」

「たゞ今、県城から早打ちが来ました。洛陽から天子の勅使が下向されるさうです」

「わしへ?」

「元よりです。黄河を上陸(あが)つて旅途をつゞけ、勅使の一行は、明日あたり領内へ着かうとの知らせでした」

「遂に来たか、遂に来たか」

「え。——兄上には、もう分つてゐたんですか」

「分るも分らぬもない。来るべきものが当然に来たのだ」

「はゝあ……?」

「ちやうど今宵はみな宴席にゐるな」

「はい」

「口を嗽(すゝ)ぎ、手を浄(きよ)め、酒面を洗つて、大評議の閣へ集まれと伝へろ。わしも直ぐそれへ臨むであらう」

「はつ」

 曹仁は、馳け去つた。

 楼台を降つた曹操は、冷泉に嗽(うが)ひし、衣服を更(か)へ、帯剣を鏘々(シヤウ/\)と鳴らしながら、石廊を大歩して行つた。

 閣の大広間には、すでに群臣が集まつてゐた。たつた今まで酒席に躁(はしや)いでゐた諸将も、一瞬に、姿勢を正し、烱々(ケイ/\)と眸をそろへながら、大将曹操の姿を迎へた。

「荀彧」

 曹操は、指名して云つた。

「きのふ、そちが予に向つて吐いた意見を、その儘(まゝ)、この席で述べろ。——勅使はすでに山東に下られてゐる。曹操の肚はもう極(きま)つているが、一応荀彧から大義を明らかに述べさせる。荀彧、立て」

「はつ」

 荀彧は起立して、今、天子を扶(たす)くる者は、英雄の大徳であり、天下の人心を収める大略であるといふ意見を、理論立てゝ滔々(タフ/\)と演説した。

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[補註]新聞連載版では荀彧を荀惑に作っています。この配信では誤字と思われるものも、そのまま記載することを基本方針としていますが、この誤記については数が多いため、荀惑を荀彧に修正しています。

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