吉川英治『三国志(新聞連載版)』(297)名医(五)

吉川英治『三国志』の新聞連載版を1日2回発信します。第297回。
三国志研究会(全国版) 2026.09.08
誰でも

 擬兵の計を知らず、寄手のさかんな篝火(かゞりび)に城兵は、

「ぬかるな!襲(や)つて来るぞ」

 と、眠らずに、防備の部署についたが、夜が白んで、城下の篝火が消えて見ると、城下の敵は一兵も見えなかつた。

「査瀆が襲はれている!」

 かう聞いた王朗は、仰天して城を出た。そして査瀆へ駆けつける途中、又も孫策の伏兵にかゝつて、遂に王朗の兵は完膚なきまでに殲滅された。

 王朗は漸く、身をもつて死地をのがれ、海隅(カイグウ)(浙江省・南隅)へ逃げ落ちて行つたが、厳白虎は餘杭(ヨコウ)(浙江省・杭州)へさして奔つてゆく途中元代(ゲンダイ)といふ男に酒を飲まされて、熟睡してゐるところを、首を斬られてしまつた。

 元代は、その首を孫策へ献じて、恩賞にあづかつた。

 かうして、会稽の城も、孫策の手に落ち、南方の地方は殆(ほと)んど彼の統治下になびいたので、叔父孫静を、会稽の城主に、腹心の君理を、吾(ママ)郡の太守に任じた。

 すると、その頃、宣城から早馬が来て、彼の家庭に、小さな一騒動があつたことを報(し)らせて来た。

「或る夜、近郷の山中に住む山賊と、諸州の敗残兵とが、一つになつて、ふいに宣城へ襲(よ)せてきました。弟様の孫堅(ママ)、大将周泰のおふた方で、防ぎに努めましたが、その折、賊のなかへ斬つて出られた御舎弟孫堅(ママ)様をたすけるため、周泰どのには、甲(かぶと)も着ず、真ツ裸で、大勢を対手(あひて)に戦つたため、槍刀創(きず)を、体ぢゆうに十二ケ所も受けられ、瀕死の容態でございます」

 使(つかひ)のはなしを聞くと、孫策は急いで宣城へ帰つた。何よりも、案じられてゐた母の身は、つゝがなかつたが、周泰は、想像以上、ひどい重傷で、日夜苦しがつてゐた。

「何とかして、助けてやりたいが、よい名薬はないか」

 と、家臣へ、知識を求めると、先に厳白虎の首を献じて、臣下の一員となつてゐた元代が

「もう七年も前ですが、海賊に襲はれて、手前がひどい矢疵(やきず)を受けた時、会稽の虞翻といふ者が自分の友だちに、名医があるといつて紹介してくれまして、その医者の手当で、わづか十日で全治したことがありましたが」

 と、話した。

「虞翻とは、仲翔のことではないか」

「よく御存じで」

 と、元代は、孫策のことばに眼をみはつた。

「いや、その仲翔は、王朗の臣下だつたが、探し出して用ふべき人物だと、わしは張昭から薦められてゐたところだ。——さつそく、仲翔をさがし出し、同時に、その名医も、伴(つ)れて来てもらひたいが」

 孫策の命に、

「仲翔は今、どこにゐるか」

 と、諸郡の吏に、捜索の令が行き渡つた。虞翻、字は仲翔。

 彼は、つい先ごろ、野(ヤ)にかくれたばかりだが、又すぐに見出されて孫策の命を聞くと、

「人ひとりの命を助けるためとあれば」

 と、友人の医者を伴ひ、さつそく宣城へやつてきた。

 仲翔の親友といふだけあつて、その医者も変つてゐた。

 白髪童顔の老人で、いかにも清々(すが/\)と俗気のない姿だ。

 野茨か何か、白い花を一輪持つて、絶えず嗅ぎながら歩いてゐる。あんまり人間くさい中へ来たので、野のにほひが恋しいといつたやうな顔つきだ。

 孫策が、会つて名を問ふと、

「華陀(クワダ)」

 と、答へた。

 沛国譙郡の生れで、字(あざな)を元化(ゲンクワ)といふ。素姓はあるが、よけいなことは云ひたがらないのである。

 すぐ病人を診(み)て、

「まづ、ひと月かな」

 と、つぶやいた。

 果(はた)して、一月の中に、周泰の瘡(きず)は、拭つたやうに全治した。

 孫策は、非常によろこんで、

「まことに、君は名医だ」

 と、云ふと華陀は、

「あなたも亦(また)、国を治す名医ぢや。ちと、療治は荒いが」

 と、笑つた。

「何か、褒美に望みはないか」

 と、孫策がきくと、

「何もない。仲翔を用ひて下されば、有難い」

 と答へた。

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